注目ぼん(本)・監修者(著者)に聞く



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☆★☆ インタビュー ☆★☆

『現代中国農業経済論』の著者 沈金虎先生に聞く(前編)

 今年2月に沈金虎先生(京都大学農学研究科)の大作『現代中国農業経済論−近代化への歩みと挑戦』が発行になりました。この本は、戦前の植民地時代から、改革・開放の歴史に始まり、中国の食料需要と農業成長の計量分析、WTO加盟、農民負担問題、教育改革、農工格差、戸籍制度、さらに土壌浸食、草原退化・砂漠化問題にまで、中国農業が抱える問題ほとんどすべてにわたって論述した大作です。
 そこで、著者の沈先生に、先生のお人なりや、本についての読みどころ、特長、今後の研究方向などについてお聞きしました。

◇文革期の中国での体験

 問:沈先生、こんにちは。まず初めに本の紹介の前に、先生自身の自己紹介をしていただけますか。著者略歴によりますと、先生は1961年に中国江蘇省無錫でお生まれになっていますね。無錫は太湖の畔の美しい町と聞いています。上海や杭州や蘇州からも近く、多くの日本の観光客が訪れています。子どもの頃の無錫の様子についてお聞かせいただけますか? 
 
 答:無錫は良い町ですよ。昔から、中国のなかで近代産業が比較的早く発達した都市の一つでしたが、1970年代、80年代に郷鎮企業が最も早く発展し始めたのも有名です。いま、都市部の人口は230万の大都市になり、日本人の観光客がよく訪れるだけでなく、日系企業も多く進出しています。でも、子どもの頃の無錫の様子に関する記憶は、あまり多くありません。小学校の低学年のときに、両親とともに無錫を離れ、農村に下放したからです。1980年頃、再度無錫に戻ったとき、幼い頃に記憶していた道路や建物はもうすっかり変わってしまっていましたが、いまはもっと変化しました。


 問:文化大革命が始まった1966年は、先生は5歳の頃ですね。そして1976年10月の四人組の逮捕時は15歳。つまり先生の少年時代は、文革一色に染められていたと思われますが、その間どのようにお過ごしになられましたか。日本の子どもとはかなり違った生活を送られたと思いますが。また下放体験もできましたらお話しいただけますか?

 答:文化大革命が始まったとき、私はまだ無錫にいました。町中を歩くデモ隊を何回も目にし、非常に賑やかな印象を受けました。また大人たちの話によると、その頃無錫でも派別間の武装闘争が起きたらしいのですが、私は直接みたことがありません。無錫での文化大革命運動はそれほど激しくなかったのでしょう。
文化大革命が開始して3年後、私たち一家は、同じ江蘇省内の蘇北農村(大豊県)に下放しました。当時の農村では、イデオロギー重視の社会風潮は流行っていましたが、激しい「階級闘争」はあまり感じませんでした。至って平穏でした。人びとは普通に生活・生産し、子どもの私たちも普通に学校に通いました。1978年に大学に入学するまで、私はずっとそこの農村にいました。
 1960年代末頃から1970年代前半まで続いていた中国の農村下放は、何種類がありました。よく知られているのは、都市知識青年の下放と都市幹部の下放ですが、もう一種類は都市一般労働者とその家族の下放です。私たち一家の下放は後者に属します。そのため、私の下放体験は、同じ年代に農村下放した都市知識青年と違って、それほど苦労しませんでした。親元を離れていなかったし、また就学の年頃でしたから、農村下放していた間はほとんど学校に通っていたのです。
 それでも、9年ほど農村に住み続け、また両親と姉たちは地元農民と一緒に農業生産に従事していました。私も農繁期や放学後によく姉たちの農作業を手伝っていましたから、農村生活の貧しさと農民の苦労は身をもって体験しました。当時、中国の一般農村は政府の食糧配給の対象ではありません。私が下放した農村は綿の産地で、地元産の食糧といえば、トウモロコシとサツマイモぐらいでした。米、小麦などの配給がないので、それらが地元住民の主食となりました。トウモロコシもサツマイモもたまに食べるなら、まだよいでしょうが、毎日の主食となると、結構つらかったです。また農作業も結構しんどかった。
 いまの研究たちは、よく人民公社の平等主義的な分配制度による非効率性を口にしますが、私の経験では必ずしもそうではありません。私が下放したところでは、70年代の初め頃からすでに「評工記分」と呼ばれる労働ポイント制を実施していました。個人の完成農作業量が労働ポイント数とリンクし、また年末の収益分配は個々人の労働ポイント総数に基づいて行われました。そのため、たいていの農作業に関して、皆が一生懸命に参加していました。
 学生の私たちも、農繁期の休学期間はもちろん、放学後もよく大人たちの農作業を手伝いました。綿の産地なので、綿摘みは重要な農作業の一つです。その労働ポイント数は、摘んだ綿の重量によって計上されました。少しでも多くの労働ポイント数を稼ぐため、朝露がまた蒸発していない早朝に綿畑に入り、夜暗くなるまで綿を摘み続けた経験は、私にも数回ありました。その時の経験は、いまも貴重に思っています。

 問:先生は1982年には南京農業大学農業経済管理系を卒業されていますね。ということは、1978年に入学ですね。文革による勉強の遅れを取り戻すのは大変だったのではないですか? また農業を専門分野とされた理由は何ですか。

 答:文革による勉強の遅れは、私より年が若干上の人が大きかったようですが、私自身にとってそれほど大きくないと思います。なぜなら、文革の後半になると、暴風雨的な政治運動はもう過ぎ去り、とくに農村地域では「読書無用論」が流行っていましたが、小中高校の教育は通常に行われていました。私は1977年に高校を卒業し、その年の秋に期待もしなかった大学入試が再開しました。それまでの約10年間は、中国全土で通常の意味での大学入試が中止されていました。私は、77年の大学受験は失敗しましたが、翌78年の受験に成功し、南京農業大学に入学することができました。専門分野を農業経済にしたのは、高校の先生の推薦です。いま振り返ってみて、その選択は悪くなかったと思います。

◇日本留学前後の事情

 問:卒業後すぐに日本に留学されたのでしょうか。1989年に京都大学農学研究科で博士課程を修了されていますね。すると、1983年か84年には日本に留学されたことになります。研究を続けたいと思った理由は何ですか? また、また留学の選択先を日本にした理由は何でしょうか。

 答:大学3年生のとき、学内の掲示板で海外留学生の募集をみました。それから、迷わずにそのための試験準備を始めました。留学予備生の選抜試験は卒業の半年前に行われ、無事それに通りました。でも、当初予定した留学先は英語圏の国で、日本ではありませんでした。途中、中・日政府間で交換留学協定が結ばれまして、私の留学先は急きょ日本に変えられました。その変更に関して、事前相談を受けましたが、私はすんなり受け入れ、今日のような状況になりました。

 問:学生のときから日本に興味はありましたか? 先生は流暢に日本語を話され、しかも日本語で論文も書かれます。大変な努力をされたと思いますが、日本語はどのように習得されましたか? 

 答:私の学生時代は、すべての外国が遠い存在でした。とくに日本に関して、情報が非常に少なかったので、正直に言って、興味あるところではありませんでした。日本に興味を持ち始めたのは、日本留学を決めてからです。それから、一生懸命に日本のことと日本語を勉強しました。20歳を過ぎてから勉強を始めた日本語ですから、話すほうは、いまでもかなりのなまりがありますし、書くのも時々中国語の癖が出てきます。今回の本も編集部の高橋さんに丁寧に直していただきました。とても感謝しております。
 日本語の会話は日常生活のなかで、また書くのは論文で、とくに修士論文、博士論文を書くことを通じて上達しました。とくに自分の書いた文章を他人に直してもらうことは、最良の勉強機会です。

 問:留学当初の日本の印象はどうですか。
 答:外国に来たというより、田舎者が都会に来た感じです。外観では日本人と中国人はあまり変わりませんし、町に出ても漢字の標識は至るところにあります。中華料理の食材も、だいたいスーパーで買えますから、私はあまり違和感なく、早く日本の生活に慣れました。

◇日中間の隣人関係のあり方

 問:先生は、京都大学大学院修了後、キヤノンにお勤めになられ、その後南九州大学を経て、現在は京都大学で教鞭をとっておられます。先生は現在45歳になられると思いますが、そのうち半分が日本にお暮らしになっているわけですね。初め先生が来日された頃は日中友好ムードが高かった頃でした。現在、日中間ではいろいろ複雑な問題が生じています。これからの関係はどうなっていくと思われますか? また、日中双方の個々人はどう対応すべきでしょうか? 日中双方にお詳しい先生にご意見をお聞きできればと思います。

 答:そうですね、時間が経つのが速くて、私が日本に来てもう23年が経ちました。
 20年前に比べて、いまの日中間には確かにいろいろ複雑な問題が浮上してきました。でも、落ち着いて考えれば、次の二つのことがみえてくるはずです。一つは、現在騒がれている問題の多くは、一部の人、とくに一部の政治家の行動と彼らによる政治決断に起因する問題で、両国民の主流は近隣友好を望み続けていることです。もう一つは、このような主流意識が変わらない限り、これからの日中関係も一時的な摩擦や冷え込みがあっても、長期的には好転、あるいは正常化する方向に向かっていくことです。私は、そう確信しています。ただ、摩擦を少しでも減らすためには、日中両国民がまず相手をよく知ること、また相手の立場に立ってものごとを考えることを実践していく必要があると思います。隣国同志というのは隣人同志に似ており、うまく付き合うためには誠実さが求められるのと同時に、思いやりと遠慮が必要です。このような隣人との付き合い方で、両国間の政治・経済関係に対処していけば、今日のような複雑な問題はそもそも現れてこないはずです。
(次号・後編へ続く)