今回は、高橋五郎著『新版 国際社会調査:中国・旅の調査学』です。この本は、2000年刊行された『国際社会調査: 理論と技法
』の改訂版です。
海外フィールドワークのための理論と技法を初心者にもわかるようにまとめたもの、という視点は、前回の本と同様。海外での日本人による調査実施にあたっての留意点、分析手法、モラル、調査許可など実践的に、懇切丁寧に説明しているので、海外での調査を行う人は、是非読んでほしいですね。
どこが新版かというと、中国に焦点を絞ったこと。なぜ中国かというと、著者のフィールドワークが、最近中国が多くなっていること以外に、中国で社会調査を行うには、他の国にない難しい問題があるそうです。それは、第1に、中国には国家機密の海外流出を防ぐため、社会調査を規制する法律があり、それをクリアする必要があること。第2に、歴史問題や対日感情に根ざした、日本人調査者に向けられる厳しい視線があること。第2の問題にたいしては、本のなかで、折りにふれて著者の見解、すなわち現地の人びとと真摯に語り合うことの重要性が述べられており、また調査者のモラルについても厳しく指摘しています。
さて、中国の社会調査といって、思い出されるのは、張芸謀監督・高倉健主演の映画「単騎、千里を走る」。高倉健(役名:高田)の息子(中井貴一:声のみ)は民俗学者で、中国伝統の仮面劇を研究しているが、余命いくばくもなく、最後のやり残した仕事が、仮面劇「単騎、千里を走る」(「三国志」に由来する話)を撮影すること。長い間の確執によって父子には大きな溝がありました。しかし、事情を知った父(漁師)は、息子に代わって単身、中国の雲南にわたる、という設定です。民俗調査、伝統文化調査はもちろん社会調査の範疇でしょ。
そこで、国際社会調査と映画「単騎、千里を走る」を絡ませたお話を。
高田は、丁重なんだけど、かなり無茶な要求を、旅行社の女性ガイドと現地の男性通訳チューリン(あまり日本語がわからない通訳)にしているんですね(この2人は、国際社会調査でいうと、現地パートナーといったところ。)。たとえば、仮面劇「単騎、千里を走る」を演じられるのはリー(李加民)だけであると知った高田は、彼を訪ねるが、リーは傷害事件で刑務所暮らし。高田は刑務所内での撮影を要求する。これは社会調査に厳しい中国ならずとも、受け入れ拒否されても仕方ないところですよね。
ところで、現地パートナーとの関係については、『国際社会調査』のなかで、役割の重要性を指摘しています。映画のなかでは、通訳のチューリンはいつもニコニコ、見通しもないのに、なんでも「ノープロブレム」。女性ガイドはかわいいのに、いつもムスッと「高田さん、無理です、諦めてください」と言うばかり。この2人と高田のやりとりがコミカルなんです。
そして高田の一途な思いは、協賛者を増やし、刑務所での撮影が許可される。ところが、リーは演技できない。理由は残してきた私生児ヤンヤンへの思い。ここにもう一つの父子の関係がクローズアップされます。自分と息子の関係がダブリ、高田はヤンヤンを探して、雲南の麗江に行くことに。
ここからの風景はとても美しい。麗江の街並み・家並み、ヤンヤンの住む村−石頭村(映画での名前:ロケ地の石鼓鎮はまもなくダム建設で水没されるという)、高田とヤンヤンが道に迷う土林、草原。すべてが息を飲むように美しい。
そして圧巻は、「長街宴」。ヤンヤンを探しに行った石頭村で,村人総出で食事の接待を受けるシーン。両側に家が立ち並ぶ狭い通路に、延々とテーブルを連ねて食事をするもので,雲南の少数民族ハニ族の「長街宴」という風習だそうです。
父と会いたくないというヤンヤンの意思を尊重し、高田は一人再び刑務所に。ヤンヤンのたくさんの写真を携えて。
その後の展開は、映画でみてね。
この映画では、メインテーマは父子の関係の修復ですが、もう一つの大きなテーマは、言葉ができなくても、心が通じ合えること、直接出会って、目を見て、身体で感じることの大切さを語っていると思います。それは、『国際社会調査』のなかでも、再三、情報をただ受け取ることばかりを考えるのでなく、五感を働かせて、調査者と被調査者の真に向き合い、信頼関係を築くように述べているのを彷彿させる。
この映画は高倉健以外は、すべて麗江近辺のアマチュア(本物の村長、通訳、村人など)によって演じられている。その理由について、張芸謀のインタビューを中国のサイトでみつけたので、訳しますね。
張: 私は高倉健さんに一つの場面、つまり中国にやってきて本当に一群の見知らぬ人たちと出会うという場面を与えたかったのです。もし彼がプロの俳優に出会ったなら、どう感じるでしょう。大変嘘っぽいでしょう。彼はいま本物の警察、本物の村、本物の村人と向き合い、1回の撮影で200部以上のフィルムのなかでアマチュアの俳優に出会っているのです。本物の情景、本物の人と向き合うことは、異郷にある孤独な旅人の感じを作り出すものです。それ以上のものではありません。
高倉健の人柄がわかるところを訳します。
「この映画が高倉健に有終の美を添える作品にした、とメディアは評していますが、あなたは彼の最高傑作にすることができたと思いますか」という質問に対して、
張: 彼の有終の美になることを私は望んでいません。私は彼に長生きしてもらい、もっと多くの作品を作ってほしい。高倉健さんの200以上の作品を私は全部みたわけではありませんが、「単騎、千里を走る」は彼が感動した作品の一つだと思います。なぜなら、彼はかつて映画のなかで涙をみせたことはなかった。しかし彼は、「脚本を読んで涙が出ました。しかし演技しているとき泣くでしょうか。いや、泣きません。演技で涙をみせないのは、私の涙を観客にとっておくためです。」と言いました。今回、彼は本当に涙をこらえきれませんでした。アマチュアの俳優と向き合っていたからです。何度も涙を流すということは、彼にとって思わぬことでした。彼は毎回涙を流し、自分を責めていました。「俺はどうしてこんなにダメなんだ。感動で涙が出てしまう!」刑務所のシーンで彼はカメラマンに泣いているところを映されたくなかったのです。私は、この映画は彼が最も心に響いた、感動した作品だと思ってます。