今回は、山崎亮一著『共生農業システム叢書 第10巻 周辺開発途上諸国の共生農業システム』です。
かつて長くあいだ経済停滞に苦しんでいた東南アジアとサブサハラ・アフリカ(サハラ以南アフリカ)。この本で、山崎先生は、なぜ1980年代以降、経済発展に格差が生じたのか考えるのです。
そこで分析のツールにしたのが、「中心」と「周辺=辺境」の関係を理論化した「新国際分業論」(理由は本で読んでね)。そして設定したのが、1つは、日本を「中心」とし、「周辺=辺境」を東南アジアとする「東アジアコンプレックス」。もう1つは、西ヨーロッパ(この本ではフランスが対象)を「中心」とし、「周辺=辺境」をサブサハラ・アフリカとする「西ヨーロッパ・アフリカコンプレックス」。
まず「東アジアコンプレックス」から。1980年代以降、「中心」である日本では、農家労働力が枯渇し、日本企業による東アジア地域への直接投資が急速に進みます。一方、「周辺=辺境」である東アジアでは、「緑の革命」によって農家階層が分化し、低賃金労働力のプールができ、「中心」からの海外直接投資を呼び寄せました。日本企業による生産過程の海外への部分移転は、かつてのような農家をベースにした低賃金構造であったことは事実ですが、一方で東南アジアにおける離陸の契機にもなったのです。
他方、「西ヨーロッパ・アフリカコンプレックス」。「中心」であるフランスは、戦後、低賃金・不安定就業労働力の大半を移民労働力に依存し、経済成長を図りました(フランスでは、過去3世代前は、人口の4分の1が移民の子孫なんだそうですね)。初めはイタリアなどの南欧から、その後は旧植民地を中心とするアフリカ、アジアから。そして流入の形態も出稼ぎから永住に変わりました。しかし、フランスからの途上国に対する直接投資はほとんどありませんでした。このことがサブサハラ・アフリカの工業化の停滞を招いたと、山崎先生はみているのです。
具体的には、「東アジアコンプレックス」では、日本とベトナムとの関係、「西ヨーロッパ・アフリカコンプレックス」では、フランスとマリに焦点があてられて、分析されています(ベトナムとマリは、山崎先生が長年調査研究したところなので)。
以上は、おおざっぱな概略なのですが、非常に面白く、知的刺激に満ちています。ぜひ読んでね。
さてと、ここからは脱線。マリは全く見当もつかないほど離れた国なので、話はベトナムに。
この前、1月6日付けの朝日新聞で、53か国・地域で「07年は06年よりも良くなる」と答えた人の割合が最も高かったのはベトナムの94%である、という記事が載ってましたが、見ました? ちなみに日本は19%で下から2番目。断トツのベトナム以下は、香港74%、中国73%だそうです(ギャラップによる)。新聞では、ベトナムでは毎年7〜8%台の高成長を続け、昨年外国からの直接投資の許認可は最高過去で、今年11月にはWTO加盟を控え、雇用期待が高まり、楽観的ムードが支えているのが、その理由ではないかと書いてましたけど。
またその前の何日か前の朝日新聞(日付けは忘れた)にも、ベトナムは若い労働人口が多く、教育水準が高く(識字率が男女とも90%以上)、勤勉で忍耐力があり、しかも宗教・民族問題がないため、「チャイナ プラスワン戦略」の海外投資候補地域として、ナンバーワンになっているという記事もありましたね。こうしてみるとベトナムの躍進、期待度には目を見張るものがありますね、
ところで先の本で、山崎先生は、メコン河デルタの稲作について次のように言っています。
「メコン河デルタにおける水稲作方式の多様な展開は、幹線運河の建設を軸に進められてきた植民地政府やベトナム国家による土木事業の存在を前提としながらも、農民たちが、地域固有の自然的条件に創造的に対応してきた結果として編み出してきたものである。」
では植民地化以前はどうなんでしょう。それを答えてくれるのが、司馬遼太郎の『人間の集団について:ベトナムから考える』(中公文庫 ISBN4-12-202684-9)。この本は1973年4月にアメリカ軍がベトナムから去った直後のサイゴン政権下
で滞在した現地通信です(その後1975年にはサイゴン政権は陥落しますので、歴史的に貴重な時期ですよね)。
ベトナムの人種構成は、85〜90%はベト(キン)人です。司馬遼太郎によると、17世紀までベト人がいたのは、ハノイ近くのソンコイ川流域。そこで稲作を行っていたのです。メコン河流域にはチャム族(チャンパ人)が住んでいました。ソンコイ川は、しばしば洪水をもたらし、洪水のたびに田畑流出、餓死者がでて、水との闘いがこの民族(ベト)を賢く、勇敢に、努力好きにしたという司馬良太郎は言います。さらに氾濫から稲を守るため堤防を二重・三重に築き、いったん上流が増水したという情報が入るや、農民総出で突貫工事を行うという結束力が、ベトナム戦争にも打ち勝てた遠因だとみています。
それに対して、メコン河は「人間に優しすぎる」と言っています。メコン河の上流のトンレ・サップ湖が自然の水量調節湖となって、洪水がほとんどないのです。チャム族は、そこで田畑を広げること(排水溝を掘るだけ)もせず、チャム族はその「宝の上でねむりこけていた」そうです。
メコン河デルタにベト人の侵略が始まったのは17世紀から。18世紀にはあこがれのメコンデルタを手に入れたというわけです。チャム族は四散し、わずかに残った人びとは少数民族になってしまったというわけ。
そして司馬遼太郎は次のように言います。
「かれら(ベト人)は小規模の運河をつくったり、排水路をつくったり、水田化した。土地の利用法をよりすくなくしか知らない民族は、それを豊富に知っている民族のために苦もなく追われるのである。そしてやがて、このデルタに大規模な運河網を掘りめぐらしたフランス人によってベトナムは被侵略者の位置に転落した。」
ベトナム戦争の勝利、経済発展するベトナム、この民族の強さ〔葦のような強さ:「巨人であるアメリカは葦の原にとびこんでこん棒をふるったが、葦が薙(な)がれても切れることはなかった」(司馬)〕は、歴史に培われた民族性にも関係しているのでしょうね。