今回は、
矢口芳生著の『共生農業システム叢書1 共生農業システム成立の条件』です。今後、この『共生農業システム叢書』は、月1冊で刊行されていく予定(あくまで予定(^^;>)。全部で11巻です。
新しい研究テーマのためか、執筆者の方々は、苦心惨憺、怨嗟の声も聞こえています。それだけ、読者にとっては、刺激的、知的好奇心を満たしてくれそう。楽しみにしていてね。
第1巻では、「競争社会から共生社会へ」ということで、「共生」という観点から農業問題にアプローチし、持続可能な環境共生型社会への道筋を明らかにすることが、ねらいです。
いま、共生という言葉は氾濫してますよね。ちょっとYahoo!のキーワード検索で「共生」と打つだけで、500万件以上ヒットしました。「男女共生社会」「多文化共生社会」「多民族共生社会」「国際共生社会」「多元的共生社会」「環境共生社会」「地域共生社会」「循環型共生社会」「障害者との共生社会」「動物との共生社会」・・・
さまざまのものがあって、意味するところは、字からみて何となくわかるような気がしますよね。だけど何となくお説教じみて感じられるのでは。何か「○○○であらねばならない」「○○○べきである」など共生という言葉から発する規範的なオーラが漂っていて、この言葉に接すると、「まあ私は遠慮しておくよ」と、腰が引けてくるんですよね。
だけどちょっと待って。とっつきやすくなるように、私流の解釈を教えますね。さきほど並べた言葉は、大きく2つに分かれると思うの。1つは自然を中心とした、持続可能な生産とか、生活スタイルといったもの。もう1つは多様性のことで、マジョリティに対するマイノリティの問題。これを足したものが共生社会。こう考えるとわかりやすいでしょう!
共生といわれて連想するのは、やはり宮沢賢治。自然と生きものとの共生を描いた童話がたくさんあります。なかでも『狼森(オイノもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)』は、自然との共生を描いた印象的な童話です。火山の噴火のあとの、自然遷移と農民の開拓の歴史が短い文章に凝縮されています。農民たちが開拓地を決めたとき、山に向かって叫びます。
「ここに畑起こしていいかあ。」
「いいぞお。」森がいっせいにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「ここに家建てていいかあ。」
「ようし。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火をたいてもいいかあ。」
「いいぞお。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木もらってもいいかあ。」
「ようし。」森はいっせいにこたえました。
(岩波文庫版「童話集 風の又三郎 他十八篇」(ISBN4-00-310762-4)より)
昔の人びとはこのように自然に謙虚に生きてきたんですね。自然から「いただきものをする」、「分けていただく」といった気持ちですね。その後、森は寒さから農民たちを守ってあげ、秋には豊作となりました。しかし、森へのお返しをしなかったことから・・・。読んでない人は、続きは本を読んでね(どっちの本をコマーシャルをしているかわからなくなってしまいますが...(・_・?))。
もう一つ共生で見逃せないのは、『虔十(けんじゅう)公園林』です。いつも「はあはあ」と笑っている虔十は、村の子どもからも馬鹿にされています。その虔十が決心したのは、荒地に杉を植えること。きれいに等間隔に杉を植え付けし、枝打ちし、杉の前で「立ち番」します。そんな様子を、村の人は馬鹿にしますが、家族は温かく見守ります。そして虔十は亡くなり、村は都市化され・・・。
ここで小学校の校長のせりふがいいですね。「ああ全くだれがかしこく、だれが賢くないかわかりません。ただ十力の作用は不思議です。」(ちなみに十力とは仏のもつ10種の超人的な知力。)
ここでは、心身に障害をもつ人との共生を教えてくれているようです。とかく障害者に対して「保護する」という意識になりがちですが、対等の立場でお互いの人格を認め合うことが大事だと、賢治は言っているかのようです。虔十がいつも笑っているのは、一般の人には見えない自然との交流を楽しんでいるからで、その楽しさを他の人にも知らせたいのですが、わかってもらえない。共生の難しさですね。
もちろん、宮沢賢治の童話には共生という言葉は使われていないし、お説教じみた言葉もないよね。ユーモラスでリズミカルな言葉、しーんとした、みずみずしい言葉が沁み込んできて、いつも新しい発見があるんです(思いっきり「思い入れ」しちゃいました)。く(⌒◇⌒)ノ