マコの勝手に思い入れ情報

著者の意向とは関係なく、本の主題とも大きく外れますが、勝手に面白いと思う情報を取り上げるコーナーです。



<<<   2006.06   >>>


☆★☆ 干拓地の「浜」と「沖」の軋轢 ☆★☆ 

  今年2月に刊行した山野明男著『日本の干拓地』は、戦後干拓の代表的な5つの事例をもとに、入植農家の展開過程をみていくもの。その過程は苦闘といってもいいもので、とくに愛知県の鍋田干拓地では、入植 直後の収穫直前、伊勢湾台風の暴風雨と高波によって壊滅的打撃を受けるのです。海を干拓するのですから、干拓地が台風の被害を受けやすいのはもっともなことですね。そして318人の 入植者のうち133人が亡くなるというのですから、その痛ましさは言語に絶するものがあります。
  鍋田干拓では入植者当人の死亡や入植断念によって、兄弟や身内が代わって入植者となったのです。映画にしてもいいような題材なんですよ、ホントに。例えば吉永小百合の「北の零年」のような。映画はみてないが、勝手に中身を想像して( 映画化されたら本も売れるんだけどな・・・)。 そうした入植のいきさつがこの干拓地の性格に大きく影響したとこの本では話は続くのですが、その後の展開は本を読んでね。
 干拓地といって連想されるのが、重松清の『疾走』。15歳の少年の救いようのない運命を描いたもので、その背景となっているのは、少年が住む干拓地とその周りの近接地。少年は元からの「浜」に住み、少年のあこがれの彼女は「沖」に住んでいます。この「浜」と「沖」の仲の悪さは尋常ではない。少年の祖父母の世代が「沖」のできあがるのを見てきたというのですから、たぶん戦中あるいは戦後まもなくの干拓でしょう。祖母は「あそこは沖だから」と声が低く沈んだり、冷ややかに笑ったり、眉を寄せて口にしたりする。はっきり言うと「浜」は「沖」を差別している。本当にこうしたことはあるのかなあ・・。
 この小説は瀬戸内海の干拓地を舞台にしているが、『日本の干拓地』でも児島湾干拓地を取り扱っている。しかし小説ではないので、人間の気持ちというものはここでは踏み込んでいない。ただ八郎潟干拓において、生産調整に対して協力農家と非協力農家に分かれ たが、それは出身地の違いが大きく影響していることからも感情的なうっ屈が類推される。もとから住んでいる者にとって、目の前に開けた海が突如なくなってしまうという喪失感は他に替えがたいものがあるんだろうな。しかも漁業権などを持っている者と違って感情の問題は補償がないのだから。
 干拓者は元からの農業者に比べて配分される耕地面積は大きい。だが干拓地の土壌は質が劣るということは、農業者ならわかっているはずだが、それでも悔しい。ともあれこの小説は、バブルによる干拓地の観光開発の悪乗りと、バブル崩壊による「沖」の自壊、少年の家族の崩壊、少年の自爆となって結末を迎える。
 

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