今回は、当協会の4月発行の大谷弘著『花き卸売市場の展開構造』の中から。
この本によりますと、明治・大正の頃、花の流通を牛耳っていたのは問屋。その取引は「勘定合って銭足らず」でカーネーションを1本25銭と値を決めて取引したとしても、最後の勘定のときに合計で350円になったとしても、全部は支払わず、精々よく払って300円、悪くすると200円しか払わなかったとか。生産者からも小売業者からも評判すこぶる悪いのですね。(ただしこれは当時の問屋のこと。いまの問屋さんのことではないので、読んでいたらごめんなさい。)
そこで青果物市場(もう当時はあったのだ!)のような生花市場を作りたいというのが、生産者の多年の念願だったのですが....
しかし生産者は花問屋に多額の売掛金を抱えていて切り出せない。「そうは問屋がおろさない」という諺を思い出されますね。
ところが1923年9月1日にマグニチュード7.9の激烈な大地震に見舞われる。関東大震災です。地震に伴う火災によって東京下町はほとんど壊滅し、そこにあった花問屋もほとんどなくなってしまったというのです。生産者は販路を失って、生花市場をつくることになり、できたのが有楽町の「高級園芸市場」だそうです。
この市場に開設によって、さしもの問屋の力も衰え、市場に移行していき、東京以外にも大阪、神戸など他の都市にも普及していくという次第です。この本はそこから花き市場の問題を平成の現在まで展開していくものですが、ここではそれは触れない。
関東大震災の被害を調べると、死者約10万人、行方不明者4万人、全壊家屋13万、焼失家屋44万、罹災者340万人。こんな悲惨な経験も、近代化への踏み石になっていたのですね。ちょっと複雑な気持ちです。
ちょっと待って。これって花だけなのかしら−というわけで、他の業種はどうなのか、ちょっとネットでみてみました。そうすると出てくるわ、出てくるわ。魚問屋、紙問屋、油問屋、薬種問屋、酒問屋、醤油問屋、油問屋・・・。(商品ごとに問屋があったみたいですね。そういえば「病気の問屋」とは「たくさんのこと」を意味しますね。)これらの問屋も東京下町にあって、激甚な被害を受け、震災後、廃業を迫られ、どこの業界でも評判の悪かった問屋も力を失い、江戸時代から続いた問屋制度も時代のすう勢にはついていけなかったようです。
こうしてみますと、関東大震災は流通業の革新の一大転機だったのですね。
ところで、と次々脱線していく。
この本のなかで明治・大正時代に東京の花市場を支配していた花問屋の名前が出てくるのですね。小梅の河岸、花金、花粂、花直、花彦、花治、千常、花政。こう並べてみますと、風情があって明治・大正の時代の雰囲気を彷彿とさせますね。きっとその問屋さんはお金持ちで、お嬢さんがいて、そのお嬢さんがお琴などを習っていて・・・なんて次々連想してしまうのです。
そして谷崎潤一郎の『細雪』のように観梅、観桜、紅葉狩などにあでやかな衣裳で出掛けていったのでは、なんて空想が続きます。『細雪』の姉妹も、江戸時代から続く老舗のお店という設定でしたね(市川昆の映画では廻船問屋)。それも時代の変遷で経営が傾きつつあり、姉妹たちは昔日のような栄華を取り戻したいと思っていたのも、何か似ているような気がします。